藪内流茶道
利休亡き後のお茶道様。
古田織部
に憧れて、その世界観を少しでも肌で感じたくて
藪内流に入門させて頂きました。
千利休や小堀遠州は知っていても、
「古田織部って誰?」
そんな人の為に少々簡単に…
美濃国の出で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武人であるが、
武道より茶道を好み、利休亡き後のお茶道様にまで成り上がった偉大な茶人であります。
簡単すぎるやろ‼(笑)
と言う方の為にもう少し(笑)
利休七哲(千利休の高弟7人を指す呼称)
の一人で、利休が追放される際、細川忠興と織部の二人が秀吉の厳命に背いてまで、同道と見送りに行ったといわれています。
茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界と様々なつながりを持ち、全国の大名に多大な影響を与える存在であり、太閤秀吉の数寄の和尚(筆頭茶堂)、次いで二代将軍・徳川秀忠の茶の湯指南役にも抜擢されている。
織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを一つの流派に育て上げ、それは織部流といわれた。職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らはいわば茶の湯のコーディネーターとして指導にあたった[17]。茶の湯の弟子とされる人物には小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、伊達政宗、佐竹義宣、金森可重、佐久間将監、本阿弥光悦などがいる。
織部好みの代表的な茶室に、藪内流の「燕庵(えんなん[18])」[注釈 7]がある。しかし、初代剣仲が作った織部好みの建物は1864年の蛤御門の変で焼失し、現存の「燕庵」は見舞いとして有馬郡結場村の武田儀右衛門邸から移築された写しのものである[19][20]。
茶道書としては『織部百ヶ条』などを残している。弟子の大坂衆・岡村登々之助が記した『古織伝』というものもある。
書家として織部の書は左へ斜めにずれるのが特徴で、本阿弥光悦に影響を与えたとする説もある[21]。
博多の豪商、神屋宗湛は、織部の茶碗を見た時、その斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と、『宗湛日記』に書いている。なお、織部が用いた「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字[注釈 8]」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟(ながれえんご)」[注釈 9]があげられる[注釈 10]。
織部について加藤唐九郎は「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べた[23]。(Wikipedia抜粋)
と、まあこんな感じで変わったお人で藪内流で一流まで上り詰めれば憧れの燕庵や織部ゆかりのものを間近で見れるのではないかと下心全開で精進しようと思っております(笑)
自分で造った庭で花を生け、茶をたてる。
そんな人生の目標に、一歩ずつではありますがしっかりと歩んでいく所存でございます。
まだまだ未熟ではございますが、よろしくお願いいたします。